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1999年05月21日、朝日新聞21面、「ひととき」投書 「ルール消えたけんか」

二歳の我が子を外遊びさせていると、ときどき子どもたちのケンカを目にする。子どもはケンカをしながら成長するもの。ケンカが悪いとは思わない。しかし、近ごろの子どものケンカは、私が子どものころのものと、事情が違うようだなのだ。

顔に砂をかけ合う。棒で突く。石を投げる。時には、自分で戦わず、ほかの子に「A、行け! あいつをやっつけろ。」と命令する子も。ゲームの影響だろうか、棒や石などの「武器」を使うことに積極的だ。そして、早く最大のダメージを相手に与えるために、顔を狙って攻撃をするのだ。五、六歳の子供のケンカで。

「砂が目に入ったら、目が見えなくなることもあるんだよ」と言うと「こんなヤツ目が見えなくなったほうがよいんだ」という答え。

私が子どものころ、ケンカにはルールがあった。首から上は狙わない。素手で戦う。一対一、または対等の人数で戦う。相手が泣いたら攻撃を止める。これらのルールは、子どもたちの中で自然に伝承され、破ると「卑怯者」として仲間はずれの制裁を受けた。

子どもの数が減ったためか、これらのルールを伝える素地が消えてしまったのだろうか。

近所の小学生は、ケンカで相手の顔を殴り、鼓膜を破ったと言う話もきいた。

我が子も男のこ。ケンカをする年頃になったらルールを教えなければ。

子どもを持つ親御さん方、お子さんがケンカのルールを知っているか、確認してみてください。

埼玉県川越市
津村 みゆき
37歳・主婦
1 ケンカにルールはない

この埼玉県の主婦が育った環境では、「ケンカにはルールがあります」と教えられたのだろう。同年代の方が子どもであったときに、全員がこの主婦の言う「ルール」を教えられているのかを考えると、当然「そんなもん知らない」という方もいるだろう。年齢の幅を全日本人に広げてもこれらは変わらない。たとえこの主婦の幼なじみやご近所でも変わらないだろう。内容の差異は別にして、ケンカについての「ルール」が有ったという方の「ルール」とは当人の周辺の狭い世界でのみ通用しないものなのだ。法律や条例ではケンカについて特別の規則を規定してはいないのだ。ケンカにルールはないと考えている者に対してこの主婦のいう「ルール」を守ってケンカにのぞんだ場合けがを負う可能性が高いと思う。

当事者が大人か子どもかに関係なく「死ぬとは思わなかった」という殺人を含めてケンカの結果相手を傷つけた場合、ケンカという行為は違法行為となり処罰の対象だ、ケンカという行為の中に法に触れるものとそうでないものがあるのだ。そしてケンカという行為のそのほとんどは処罰の対象として規制されている。

違法な行為となることを知らなかったからといってその違法行為を規制・処罰する法の適用を免れることは出来ない。子どもがそのことを理解しているかわからぬが、処罰の覚悟をしているかどうかは別にして、ケンカにルールはない。

2 当事者にとってケンカでないとき

この埼玉県の主婦は大事な点を見落としている。当事者双方にとって「ケンカ」と認識している場合のみしか考慮していない。

自分の経験では、周りからはケンカと見えるのに自分にとってはケンカと思っていないというケースがほとんどであった。暴力をしかける側が暴力をふるうことを「ケンカ」と思い込んでいるときもあれば、周りから「ケンカ」と見られることを利用して暴力をしかける側が暴力をふるうときもある。(ガキでもこの程度の狡知性を持っている。)このような暴力に対して抵抗をすると「ケンカ」に見えるらしい。これをケンカというのだろうか。

暴力をふるわれた側が肉体的・精神的に被害者になることが多いが、暴力をふるわれた側の抵抗の結果暴力をふるった側が被害者となる場合もある。(暴力をふるわれた側にとって見れば当然正当防衛だ。)被害者が必ずしも「正しい」とは限らない。

暴力を振るう側は、
  「あいつの言動が気に食わない」
  「いうことをきかせたい(思い通りにしたい)」
などという案外無茶な要求を実現するために暴力をふるい、暴力をふるった側が「ケンカ」に勝利したら暴力をふるわれた側が何かと服従させられることが多い。

周りから「ケンカ」に見えることも暴力をふるわれた側にとっては「ケンカ」ではなく一方的な暴力に対する抵抗と考えていることもある。このこともケンカというならば
  「ケンカか悪いこととは思わない」
  「ルールを設ければケンカはOK」
という意見には反対である。

3 ケンカは子どもの成長に必要か

暴力をふるわれることに対して抵抗を試みることも「ケンカ」と定義したとしても、子どもの成長にケンカが必要とはおもわない。「人生は弱肉強食だ」ということが学べるとでもいうのだろうか?。暴力をふるってでも自分の意見を押し通せということなのだろうか?。そうすれば人の上に立てる、人生が面白おかしくすごせるとでもいうのだろうか?。

思い通りにことを動かしたいと暴力を行使されたときに「暴力をふるわれた側」が「ケンカ」をしたくないと考えた場合、無抵抗に抑圧され強姦されなければならないのだろうか?。抵抗して「ケンカ」になった場合何を学ぶというのだろう?。相手を傷つけても「ケンカ両成敗」となって「暴力をふるわれた側」も50%悪いと判定されてしまう、「暴力をふるった側」が100%責任を負うことはない、ということを学ぶのだろうか?。
※ これが通ると「怒られても半分さ。責任も半分さ。」と暴力を仕掛ける輩が出てくる。

「暴力をふる」い、その暴力によって思い通りにことが動かせると思い込み、それを当然の事として何のコンプレックスを抱かぬ支配的存在には「暴力をふるわれた側」の悲しみと怒りが理解できにくいのだろう。

この埼玉県の主婦の論は少なからず暴力を肯定している点から全く賛成できない。



初出 MAY 1999
最終更新日 MAY 1999



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