インターネット時代になって、パソコン通信の最大手 Nifty-serveは一ISPになってしまった、ということが書いてある。なるほど、確かにそうかもね。クローズとな世界での掲示板よりも開かれた掲示板、という欲求が利用者にあったということ。
SNSの本質はコミュニティとして閉じることか? 多分、そうだと思う
インターネットにつなげてさえいれば、様々な掲示板にアクセスできる世の中になってから出てきたSNS Mixiなんだから、利用者になれるかどうかに制限がある。
この制限は、パソコン通信時代の「どこのホスト局を選択するか?」らよって利用できるサービスに制限がかかるのと異なり、
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既にSNS会員になっている者が、自分の好みによって、非会員を「SNSに参加しませんか?」と誘うことによってはじめて利用可能になる
仕組みであり、利用したいものが自ら選択するサービスではないということだ。
※ 招待が無くても参加できるSNSもあるが、これは参加したくても招待されない者の要求から生まれたものだと考える。
自分の意思によらない他人の招待によって初めて参加できるのだから、そこには「招待された事がある者」の「招待された事がない者」への一種のステータスも存在し、そこにを優越感を感じれば、現在の招待制SNSの存在理由はある。
日本では信教の自由は憲法で認められている基本的な人権であるが、世界的にはこのような考え方はまだ少数で、自分では信じる宗教を選べず、もし親から与えられた宗教を変えようものなら命にかかわる事もある、という世界も多い。
かつて、1995年前後にオウム真理教が事件を起こしたときに、世間の様々な宗教者が、
なんてコメントしている人々が多かったが、人類の歴史では、
のが宗教である。
親の
「お姉ちゃん!そんな意地悪しないで、妹もMixiに招待しておやりなさい!」
なんて、そのSNS存在理由を脅かす「変な変な平等主義」の人達もいるのもどうかしているし、上司の
「○○クン!、僕もそのMixiに招待しておくれよ!さもないと・・・」
なんて、そのSNS存在理由を脅かす「権力振りかざすオバカ」な人達もいるのもどうかしているが、
「へぇ〜、あなた、Mixi会員じゃないんだぁ!へぇ〜!」
なんていいながら、
「じゃあ、招待してあげる!」
を言わない会員も、「選民思想に染まった差別主義者」ではある。
そこにある思想は、一部宗教によくある
という考え方と大きさ・量が異なるだけで論理的には同じである。
人に優越感がある限り、招待制SNSはなくならない
初出日 13 Oct 2007
最終更新日 13 Oct 2007